私は、写真を撮ったり筆文字を描くようになってから5年ほど経つのですが、
何でも三日坊主の私が、ここまで続けられている理由を少し考えてみました。
好きだからだけじゃない
そもそも、写真や絵や、芸術の世界が好きだからなのは当然のことなのですが、
おそらくそれだけではここまで続けられていなかったと思います。
どんなに好きなことも、楽しいことも、ひとりでやっているとそのうちつまらなくなるのです。
ひとりでやっていても全然楽しめる人は楽しめるのだと思います。
でも私はどうやらそうではない人間らしいのです。
何かをやる、行動する、その先に「人」の存在が必須なようなのです。
大好きだった音楽・合唱部時代
私は子供の頃か高校まで、ずっと合唱を続けていました。
その頃の私は音楽が、歌うことが大好きでした。
それが私の全てだったように思います。
全国大会にも出場するくらい、本気でやっていました。
そして高校卒業後もやっぱり歌を続けたくて、音楽の大学へ進学しました。
ところが、そこからでした、私が生きる意味を見失っていったのは…。
大好きが大嫌いになった瞬間
それまでは、合唱という大人数でハーモニーを作り上げる歌の世界でした。
それが、大学へ入り声楽の道へと進んだとたん、そこからはひとりでの歌との闘いになりました。
その時私は、大きな違和感というか孤独感を初めて味わったのです。
歌が好きで、ずっと歌いたくて音大に入ったはずだったのに、そこから大好きだった音楽が大嫌いになりました。
歌う意味が分からなくなったのです。
なぜ自分が歌うのか、何のために歌いたいのか分からなかったのです。
根っこにある孤独
そうして私は人生で初めての挫折を味わい、学校も辞めました。
そこから本格的に依存症(摂食障害)の道へ足を踏み入れていくことになるのですが、それはまた別の記事で書きます。
結局、私はいつでも根っこに「孤独」の二文字を抱えていたのです。
寂しさや虚しさや痛みを癒してくれる何かを、ずっと探し続けていました。
だからこそ、色んなものに依存してきたのだと思います。
食べものやお酒やモノや、人や恋愛や行為に依存して、その孤独や虚しさややるせなさを解消しようとしていたのだと思います。
そこで出会ったアート
そんな時に出会ったのが、筆文字や絵や、写真の世界でした。
ちょっとした興味から、たまたま家にあった筆ペンで筆文字を描き始めました。
好きな言葉や思うことや、苦しさや楽しさや痛み、いろんなことを文字にしました。
「描く」ということの楽しさを知って、そこから絵も描くようになりパステルや顔彩で絵と筆文字を組み合わせたり、
撮ってきた写真に文字を入れるようになったり、とにかく創作に夢中になりました。
それをやっている間は痛みも苦しみも忘れられました。
初めはそれで楽しかったのです。
でもある時からまた違和感を感じるようになりました。
自分ひとりで楽しんでいても全然楽しめなくなったのです。
そう、また私の中の「孤独」感が警告を鳴らしていたのです。
アートが繋いでくれたもの
でもその孤独感を少しずつ癒してくれたのも、やっぱりアートでした。
アートそのものというよりは、アートの先に待っていてくれた「人」でした。
私の描くものや撮るものを見て、何かを感じてくれたり喜んでくれたり、笑ってくれたり泣いてくれたりしてくれる人の存在でした。
その人たちから私は生きる希望をもらいました。もちろん今もです。
私はアートを通して「人と繋がりたかった」のです。ずっとずっと、孤独だったのです。
絵を描きたい、写真を撮りたい、芸術が好き、
その気持ち以上に、「人と繋がりたい」その思いがあったから、ここまで続けられてきたのだと思います。
アートを通して自分の見るものや思うことや、考えることや世界観を、誰かと共有したかったのです。
そうして心と心が繋がれる人の存在を求めていたのです。
今現在も、私のアート活動の根底はそこです。
人と繋がるためです。
見せたい人がいるから、伝えたい人がいるから、笑ってほしい人がいるから、
だから
これからも私は生きている限り、写真を撮ったり筆文字や絵を描いたり、
アートを続けていくのだと思います。
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